朝定食
朝定食に救われている。
朝定食はどの場面で食べてもうまい、のですごい。
うまくなかったこと、ありますか?
何度もこの朝定食に救われている自分がいる。
手を合わせてからの一口目、味噌汁をすするその瞬間に幸福の全てが詰め込まれている。
朝。
早起きをして今日1日の原動力となる朝定食。
朝まで酒を飲み始発までのしのぎ、帰路への原動力となる朝定食。
最寄りまで何とか辿り着き、あとはただただ気持ちのいい睡眠を取るための手段となる朝定食。
牛丼屋の朝定食は様々な場面に適応する、最強コンテンツなのである。
地方出身の私からすると、これは当たり前のことではない。
今、この瞬間に必要としている、からこそ朝定食は輝き、存在価値が見出される。
上京するまで、今、この瞬間目の前に朝定食があることは一度もなかった。
だからこそまさに今目の前で輝いている朝定食。輝き続けているし。私はそれを求めている。
東京に出てきて良かったこと堂々の一位と言うとしっくりこないので、堂々の一位と言っても過言ではない。にしておく。
この混濁した東京に、牛丼屋の朝定食というのは必要不可欠である。
存在しなければ全ては成り立たないまで言える。
東京が存在する故、朝定食は存在し続けている。
明日、朝定食が消滅する。
そこに東京は存在しないのだろう。
おでん
おでんを買った。
「汁はなしでお願いします」とコンビニ店員に伝える。
「汁はなしでよろしかったですか?」
表情からして、汁なしでおでんを買っていく人間は少数派なのだろう。
「はい、汁なしでお願いします」
「はい、汁なしですね」
隣のレジにいたコンビニ店員が、コンビニ店員に話しかける。
「汁忘れてるよ」
「いや、汁なしでいいらしいんすよ」
「お待たせしました。汁なしでよろしかったですか?」
「はい、汁なしで大丈夫です」
流石にそこまで何度も汁についての会話が為されると、汁なしでよかったのか一度考えてしまう。
「家で汁捨てるの面倒なんすよね笑」などと言っておけば良かったのかもしれない、と今思う。
勿論、コンビニの店員さんは間違った行動はしていない。
おれも間違ってはいない。
その場にいる全員が間違っていない。
「汁なしでよろしかったですか?」
と問われれば
「はい、汁なしで大丈夫です」
と答えるだけだ。
当然の受け答えが行われ、誰も間違っていない、おでんの汁について考えている時間が続いているだけだ。
家に帰って、おでんを食べ進める。
卵の黄身を汁につけて食べたかったな、と今思っている。
小さなことだが、こういうことの繰り返しだ。
溜息
溜息というのはよろしくない。
—
気苦労や失望、また、感動したときや緊張がとけたときに、思わず出る大きな息。大息(おおいき・たいそく)。長息(ちょうそく)。
—
確かに感動の溜息はよろしい。
感動の溜息をついたのはいつかと言われると、全然ぱっとは浮かばないが。
緊張が解けた溜息は気持ちいいよね、すごくわかる。
気苦労や失望、がよろしくない。
溜息、からまず思い浮かぶのがこっちだ。
以下、溜息はよろしくないやつとする。
これは人から人にと連鎖する。
溜息にのせて気苦労や失望が連鎖してしまう。
誰かが溜息をつけば、隣へ隣へと気苦労や失望が膨張していく。
そして、自分一人での溜息もまたよろしくない。
無意識化であっても
あ、今自分、溜息をついたな。で気苦労や失望が後付けされて完成されてしまう。
こうなってくると溜息、という概念自体がよろしくない。
はぁもふぅも短い呼吸でしかないし
深い溜息も深呼吸になるだけだ。
感情ひとつで呼吸の名称も変わってくる。
私は、溜息と同時にひと息つきたいと思う。
よろしくない。とか書き始めたが
この話に関わらず
よろしくないと思えばよろしくないしよろしいと思えばそれでよろしい、でしかない話がたくさんある。
もう、はぁもふぅも溜息もよくわからんので
ひと息ついてとりあえず寝てみる。
"初"
人生"初"の高揚感がたまらなく好きだ。
今日は突発的に"初"をしてきた。
突発的なしたいが発生すると、するまでイライラしてしまって何も手につかない。
例で言えば、美容室の当日予約が取れずによく癇癪を起こす。
計画的に日程を取り決めることができる人間はいいなあと思う。
とりあえず癇癪を起こすのは早急にやめたい。もう大人なのだし。
どんなに些細な"初"でもこれまでの考え方や見え方が大きく変わることがある。
そんな瞬間が最高に気持ちいい。
私はどうしても食わず嫌いな側面がある。
とりあえずしばらくは何でも食ってみる事にする。
始発
夜勤明け、始発に乗っている。
小学生の頃、私の1日のおわりというのは22時頃だった。22時台のバラエティ番組がとても魅力的に見えた。
入眠とは朝を迎えるための行為であった。
初めて、1日に2回訪れた朝を見た時、睡魔と戦いながらも感動していたのだと思う。
始発に乗っていると不思議な気持ちになる。
1日のはじまりとおわりが混在している。
この電車内は昨日と今日のどちらなんだろうなどと考えはじめる。
みんな眠そうにしている。
私もだんだん眠くなってきた。
1日のおわりとはじまりはみんな眠そうにしている。
"形"として残す
私は今、令和を生きている。
昔が魅力的に見える瞬間がある。
昭和が目に見えた"形"として現存する純喫茶、その時を写し"形"として手の元に残るチェキなどに心惹かれてしまう感覚を持ち合わせてしまっている。拗らせてしまっていると言えるのかもしれない。
こういうのが最近はやたらエモいと言われているのだろうか。
でも、水タバコをみてエモいを連発するのは違くないか?
エモいをやたら安直に連発する風潮にはそれなりの疑問を抱いているが、情緒、趣、哀愁や懐かしさ、愛おしさ、感情が揺さぶられているがこれをうまく言語化できない、を表現する新言語としてはエモいの汎用性は認めざるを得ない。
エモいが新言語として成立するのもTikTokが日常に根付いているのも別に不思議なことではないのだ。
新言語も娯楽も常に作り続けられている。
わかってはいるつもりだが、ミーハー心と天邪鬼が心の中でいつも葛藤している。
そうした上で私はエモいは使わない、香水も聞かないように生きている。
もちろん否定しているわけではない。
エモい、に関しては一度置いておく。
私は"今"を生きているからこそアナログ、レトロが好きなんだと思う。
ポラロイドカメラを買ってみようかとAmazonをスクロールしたり、なんとなくレコードに惹かれてみたり、骨董市があるとワクワクしてしまう。
オトナ帝国なんかはその時代を生きていないくせに戻りたくてしょうがなくなる。
写ルンです。片手に、同じように思っている人も少なくはないんじゃないだろうか。
“形がない"が多いからこそ"形"を残したい、実態として捉えたいと思う。
スマホ写真はチェキにストリーミング配信はレコードに、旅行の思い出は不格好な陶芸作品として"形"として残したいのだ。
いつかの武将もどうにか武名を歴史に刻んで死のうと必死だったわけだ。
ここまでは全て前置きなのだが、私は突発的に自身の何かを"形"として残したいと思った。
ただ垂れ流しておいては消えていくもの。
今の感覚を文字という"形"として残す。
たかだか素人の書く日記は何の価値も産まない代物に見えるだろうが、
私は“形"を残し続けることにこそ意味はあると思っている。
それっぽく意思表明したんだけど、書かないと全部忘れちゃう残念な脳みそなので日記を書いてみることにします。