"形"として残す
私は今、令和を生きている。
昔が魅力的に見える瞬間がある。
昭和が目に見えた"形"として現存する純喫茶、その時を写し"形"として手の元に残るチェキなどに心惹かれてしまう感覚を持ち合わせてしまっている。拗らせてしまっていると言えるのかもしれない。
こういうのが最近はやたらエモいと言われているのだろうか。
でも、水タバコをみてエモいを連発するのは違くないか?
エモいをやたら安直に連発する風潮にはそれなりの疑問を抱いているが、情緒、趣、哀愁や懐かしさ、愛おしさ、感情が揺さぶられているがこれをうまく言語化できない、を表現する新言語としてはエモいの汎用性は認めざるを得ない。
エモいが新言語として成立するのもTikTokが日常に根付いているのも別に不思議なことではないのだ。
新言語も娯楽も常に作り続けられている。
わかってはいるつもりだが、ミーハー心と天邪鬼が心の中でいつも葛藤している。
そうした上で私はエモいは使わない、香水も聞かないように生きている。
もちろん否定しているわけではない。
エモい、に関しては一度置いておく。
私は"今"を生きているからこそアナログ、レトロが好きなんだと思う。
ポラロイドカメラを買ってみようかとAmazonをスクロールしたり、なんとなくレコードに惹かれてみたり、骨董市があるとワクワクしてしまう。
オトナ帝国なんかはその時代を生きていないくせに戻りたくてしょうがなくなる。
写ルンです。片手に、同じように思っている人も少なくはないんじゃないだろうか。
“形がない"が多いからこそ"形"を残したい、実態として捉えたいと思う。
スマホ写真はチェキにストリーミング配信はレコードに、旅行の思い出は不格好な陶芸作品として"形"として残したいのだ。
いつかの武将もどうにか武名を歴史に刻んで死のうと必死だったわけだ。
ここまでは全て前置きなのだが、私は突発的に自身の何かを"形"として残したいと思った。
ただ垂れ流しておいては消えていくもの。
今の感覚を文字という"形"として残す。
たかだか素人の書く日記は何の価値も産まない代物に見えるだろうが、
私は“形"を残し続けることにこそ意味はあると思っている。
それっぽく意思表明したんだけど、書かないと全部忘れちゃう残念な脳みそなので日記を書いてみることにします。