日記
事あるごとに「悩む」というのが人のサガのようだ。
勿論、私も悩んでいる状態に当たることは多々ある。
ここでいうのは、好きなものを選択する「悩む」よりも、どうしようもないストレスが伴う「悩む」だ。
ただ、悩むということの結果として、自身にどう働くかというのはまた別の話であるような気がする。
というのも、悩むということ自体は自分自身にとってプラスに働く行動だと思っている。
悩むということはその時ぶつかった事象に対して、考えを巡らせている状態であるし、新しい道のようなもの、又は既存の道のようなものを再認識するような作業だ。
そもそもは、今自分がぶつかったものに何か違和感のようなものを確実に感じているが為の、「悩む」だと思う。
悩むという選択をとっていふ時点で、脳みそが成熟している状態だと思うので、結果がどう転んだとて長い目で見た時にプラスになるだろうという話をしている。
こう言ってしまうと、綺麗事を並べているように私も見える。
今悩んでいることが苦しくてしんどいわけだ。
ただ言いたいことは、「悩む」ことを一枚外側から見て「考える」ことで自分にとってのストレスとして蓄積されるものを、前提にプラスを置くことで多少なりとも解消される問題なんじゃないか?ということ。
勿論、考えた上で、悩む事は胃痛を伴いながら悩む。
しかしそれと同等に、考えなくていいところまでは考えない。という線引きの感覚を持って対応することが、「悩む」ことに悩んでいる状態の解決策となり得る。
これは私自身が考える生きていく上での処世術であり、言葉にしておくことでの自戒なので異論は多々あるだろう。
でも人の数だけ異論はあるので、ここでの異論も否定も、また肯定もナンセンスだと思います。
納得できない意見として納得するか、共感して納得するかの差です。
戒め続けて、かっこいいおじとして納得して死ねたら1番よいです。
年末年始のテレビは大晦日の深夜前に飽き始める
年末年始は帰省することもなくゆっくり家で過ごした。
連日のニュースを見ていると気が滅入る。
みんなはどう感じているのだろうか?
コーヒーを淹れてみようと器具を買ってきた、次は壁一面の本棚をDIYしてやろうかと思う。
どうにか気を紛らわせようと必死だが、どうにも何かがずっと引っかかった状態が続いている。
ウイルスがどうとかではなく、元からそうだったものが露呈しているだけではあるけれど。
それにしても生きにくさを改めて実感している。
道徳を捨てたのか?という小競り合いばかり毎日目にする。
このままだと摩耗する一方で自衛するので手一杯な状況だ。
「靴下は白地にワンポイントまで!これは3本線だから校則違反です!」
など、天下のadidasを剥奪しようと目の前に迫る中学教師と話している気分だ。
「ツーブロックは禁止です!一番短いところに合わせて切ってもらうからな!」
とか言う体育教師がいた。
お前がテッペンに合わせてカットしてこいよハゲ、と思った、丁度あの頃のような気分だ。
そんなことは思い返せば沢山あったんだけれど、物心ついた時から争いはせず、でも口を出すところだけうまい具合に、偉そうに口を出す奴だったのが私だ。
それなりに嫌なこともあるけど、今まで通り今年も探り探り少しずつ良い位置に向かえばいい。
SNSのグッドボタンもバッドボタンも、犬ボタンと猫ボタンにしてしまえばいいと本気で思っている。
ついでに老若男女問わず語尾はワンかニャンでどうかお願いしたい。
少なからず良い世の中になると思うワン。
タイトル付で30分ほど悩んでしまう
久々に日記を書く。いつの間にか1ヶ月以上経っていた。
とりあえず何か書いて形に残してみよう。twitterの感覚で適当になどと思ったのが始まりだ。
とりあえず何度か日記的なものを書いてみた。
しかし、
こんな抽象的な感じでいいのか?
そもそも日記を書く時の一人称の正解はなんだ?
そもそもこれは日記なのか?
目指しているものはなんだ?
などと考えてしまっていた。そんなこんなで、無意識にしばらく忘れていたわけだ。
適当にやってみるかーとか言いながら、正解なんてないよね!で始めたはずなのにすぐこうなる。
ちなみに一人称が私なのは、なんとなく大人っぽくてかっこいいからだ。
僕だと文学的風だし俺は文字にすると急に恥ずかしい、気がする。
驚くことに、毎回数人が記事を読んでいるらしい。
軽い気持ちで投稿しているはずが、毎度何かに怯えている。
怯えつつもいつも通り生きていると、
「この日のこの記事がよかったよ」などここ数ヶ月の間で、私が書いた文章を2人に褒められた。
慣れない感覚なので恥ずかしい。みたこともない部位を急に褒められるような、なんとも言えないむず痒さがある。
ずっと文章を書くことに苦手意識がある。読書感想文や日記が苦手だった。
苦手意識のあるものをあえてやってみる、ということがごく稀にある。
大学入学当初、居酒屋でバイトをしたら声が大きく、コミュニュケーションが円滑な人間になるのではないかと飛び込んだ。
結局、店長の勤務態度に嫌気がさして数ヶ月で辞めることになる。
文章の書き方!みたいな本を先日読んだ。
内容はステマ文章の書き方!だった。
その結果、より正解がわからなくなったが、割り切って当初の予定通りもっと適当に取り組んでみることとする。
今日あったこと
Macbook Air が届く(24回払い)
デッドデッドデーモンズでデデデデデストラクション10巻購入、読了(面白い、おんたんがすき)
あと、
M-1の感想とか溢れるほどあるのに、人に話した時点で文章にする熱量が残ってないのってあるあるですか?
楽しい出来事ほど人に話切ってしまって、ここまで持ってくるのがなかなかに難しい。
物を無くすってかなりショック
私は物が捨てられないので、次々に所有物が増えていく。
基本的にここで言うのは、替えがきかない物のこと。存在とも言えるし概念だったりもする。
どうして物を捨てられないのか考える。
好きだったものを捨てる時、悲しくて寂しくてどうしようもないからなんだと思う。
良いと思った物を買ってるわけだから捨てられなくて当然だと思ってしまう。なんにも捨てられない。
大学受験の頃の参考書すらまだ捨てれてないほど。
これは、勿論全国に流通しているものなのだが受験期を毎日共にしたわけだから替えがきかない物になってしまっている。
でもこれは流石にそろそろ捨てようと思ってはいる。
そんな感じなので、本当に、生きてて一番ショックを受ける出来事は物をなくした時だと思う。
前触れもなくいきなり無くなるんだから本当に困る。
基本的に悩んだり悔いたりはしないタイプなんだけど、こればかりはどうにもならない。
人から貰った物だったりするそれはもう本当にダメ。
所有物はどんどん増え続けるから、壊れたり無くしたりのリスクは必然的にどんどん高くなる。日々リスクが伴う購買を繰り返している。
人間関係の構築なんかにおいても、その他のことに関しても全く同じことが言える。
本当に大切な物を失った時立ち直れるのか今から怖くて仕方がない。
今から、と言っても突然来るんだから怖くて仕方がない。
でも変わらず、なくしたくないものをたくさん抱えて生きていく他ないんだと思う。
好きなものを抱えていたいと思うのは、当然のことだと思うので。
地元に帰っていた話
5日間地元帰っていた。
約1年ぶりの帰省だった。
地元があるのが羨ましいという声を最近よく聞いていたので、
改めて、地元を意識した地元旅行をしていた。
結果としては、原点回帰を行なったことで自分の指針が定まったという感じだ。
物理的に、強制的に初心に帰らせられる。
おもしろい気づきが沢山あった。
気づきに気付かされた瞬間が何度もあった。
簡単にまとめると、帰省楽しかった〜!の話なだけなんですけど。
物心ついた頃から2.3年前くらいまで、好きなこととか自分に向いていることを探そうと必死にだったと思う。
自由に生きる!最終目標は自他共に認められるカッコいいおじいちゃんだ!とか漠然とした将来像はよく話していたんだけれど、何も無くて悩んで?たのかもしれない。今思えば。
楽しいことがないじゃなくて、気づいてない楽しいことが沢山あることに気づけてからがやたらと楽しい。
自分のことをネガティブインドアだと思ってたらポジティブアウトドアだったわけだから、凄いことなんですよ。
とにかく今はキャンプをしてみたい、楽しそうなので。
あと絶対カッコいいおじいちゃんになる、カッコいいので。
銃声
自宅マンション前で、今まさに銃声のような音と怒号がとびかっていると連絡を受けた。
連勤明けで疲れ切っていた身体だが、連絡を受けた瞬間、確かに私は高揚している。
先週読んだ、銃を手にした彼が、遂に発砲したのならば嬉しい。
大型台風が接近してきている。
観測史上最大の大雪が降る。
明日からインフルエンザで学級閉鎖がおこる。
小学生の頃、こんなことで同じく高揚感を得ていたのだと思う。
今思うことといえば、明日の時刻表のことばかりである。
学級閉鎖と銃声。
私の生きた経験の差はあれど、これは非日常的展開。
ルーティーンがとにかく苦手な私からすると、この非日常的展開はラッキーチャンス、ボーナスタイムなのだ。
そして私は流行り熱にうなされながら、はしゃいでいたことを後悔する。
何はともあれ。
銃声と怒号など怖くて仕方がない。
なんで銃声と怒号が私の日常に干渉してくるんだ。怖くて仕方がない。
これっぽっちも死にたくないし、せめて死ぬならば連勤最終日の夜ではなく連勤初日だろ。
銃声も怒号も台風も大雪もインフルエンザも全部怖くて仕方がないよ。
警察が出動してきたようなので、帰ります。
今日言いたいこと
また、芸能人の轢き逃げがテレビをつけても、スマホを開いても目に入ってくる。
また、読みたくもないリプ欄を覗いたりして嫌気がさしている。
これに関しては情報を遮断する他ないのかもしれないがまあそうもいかないものだ。
一度失敗を犯した人間はなぜ許されないのか。
それはみんな異端が怖いのだろう。防衛本能で他者を攻撃してしまう。
坂上忍ももう良くないですか?飲酒運転とかカーチェイスとか声高らかに言ってる方々、本当に面白くないですし。
悪者を祭り上げて攻撃する、生贄、村八分など日本人に深く根付く悪習には本当によく悩まされる。
みんながこう言っている。こうあるべきだ。物心ついた頃からそれはクラス中、学校中にすでに蔓延していた。
義務教育よりも先にしっかり身についている。日本人のDNAが騒ぐから仕方がないことなのだ。
勿論、私も例外などではなく常に世間というものを気にしながら今日まで生きてきたのだろう。
生きている上での違和感は見逃さずに生きていきたい。と最近言葉にするようになった。
これは、楽しいなにかを見つける上でも、自分の正しいなにかを肯定する要素としても重要な考え方だ。
最近読んだ本で、すごく好きな本があった。
このままの自分を全力で肯定してくれる本だ。
その本の作者は私の尊敬している人の一人なのだが、彼は40歳を過ぎてからやっと苦しさとの折り合いをつけて生きていく術を身につけたと言う。
散々、世間の違和感に悩み続け、変わる努力してきた今を彼が体現している。
ある程度の年齢までいくと、脳みそは凝り固まっていく一方でそのまま歳をとっていくんだろうと勝手に思っていたので素直に驚いていた。
これからもまだまだ自分も変わっていくことができるのだと安心することができた。
生の人間が理解者でいてくれるという力は凄まじまい。
だから、一度の過ちを責め立ててるあなたも今から変われるんじゃないですか?
あと本当に面白くないですよ。
が今日は言いたかっただけだ。